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clozapine1961
clozapine1961, 精神科専門医
カテゴリ: 精神科
満足したユーザー: 297
経験:  精神保健指定医、都内大学病院勤務
69030297
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私(53才、男)は現在、うつ病と診断され3ヶ月の休職をし、約2ヶ月が経過しました。 担当医のアドバイスで朝の散歩を

解決済みの質問:

私(53才、男)は現在、うつ病と診断され3ヶ月の休職をし、約2ヶ月が経過しました。
担当医のアドバイスで朝の散歩を始めてから、気分も体調もよくなり、毎日が楽しく、外出、読書も出来るまでになりました。
ところが、先日、通院の際、カウンセラーと医師に自ら思い当たった「うつ病になったと思われる原因」を説明(約30分間)したところ、説明途中で 言葉雄遮られ、躁状態がこのまま続けば、入院(鍵のかかった部屋)になると言われました。
投薬もサインバルタからリーマスへと変わりました。
自分としては以前の自分に戻り、かつ、うつになった原因も判ったのでうれしくて話をしたつもりだったのに、新たに躁鬱病の懸念がでて、少なからずずショックを受けています。
正直、担当医に対して説明途中で言葉を遮られたことにより不信感が芽生えました。
今後、現在の医師の基で躁鬱病として治療を受けることが良いのか、セカンドオピニオンを受けるべきなのか迷っています。
お忙しいところ、よきアドバイスをお願いいたします。
投稿: 5 年 前.
カテゴリ: 精神科
専門家:  clozapine1961 返答済み 5 年 前.

精神科医のclozapine1961です。

うつ病と診断され、だいぶ調子が良くなってきたところに、診断が違う、薬を変える、入院云々、などと言われ困惑したことでしょう。

また時間に限りがあるとはいえ、患者さんの発言を遮ってしまった医師の態度は、不適切と考えられます。

さてここで質問があります。

まず現在、おそらく軽い躁状態と考えられたのかもしれませんが、躁鬱病と診断するにいたったエピソードや現在の症状はどのようなものでしょうか?

教えていただけると幸いです。

質問者: 返答済み 5 年 前.
,
専門家:  clozapine1961 返答済み 5 年 前.

ご返答が何かの手違いか「,」のみとなっておりますので、初めの情報のみから回答させていただきます。

抗うつ薬の反応が通常よりもよかったり、抗うつ薬の投与によって軽い躁状態になったりする患者さんは、双極性障害(いわゆる躁うつ病)の可能性が高いといわれています。

しかし、双極性障害=入院加療ということではなく、外来で治療可能であることが多いです。

また、精神科治療は主治医との信頼関係、また主治医とともに治療をすすめていくことが大切ですので、現在不信感を抱いているのであれば、今後の治療反応にもあまり良いとは考えにくいです。

セカンドオピニオンを受けていただくのはもちろん構わないと思いますし、場合によっては転院を検討されるのも悪くないと思います。

参考にしていただければ幸いです。

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質問者: 返答済み 5 年 前.
2012.07.25clozapine1961先生へ私(53才男)、今後は「H.K」(東京都在住)と名乗ります。先ずは、早速にアドバイスを頂き、ありがとうございます。アドバイスを受け、私なりに再度、冷静に考えてみました。・まず、「躁鬱病と診断するにいたったエピソード」についてお話いたします。3週前まで「うつ状態」で下を向いて、小さな声で先生の質問に答えるのがやっとだった私が急に元気になり(私としては徐徐に良くなってきたつもり)大きな声で30分も興奮して話したことが、医師に「躁状態」と受け取られたのだと思います。私自身も大きな声で、身振り手振りを添えて必死の形相で話しをしていることに気付いていました。妻(結婚21年目)と母(84歳)も元気過ぎる私の行動に気付いていたようです。しかし、私としては、外部(会社や得意先等)で大きな声で身振り手振りを加えて話すのが普通のことなのです。それは、高校生時代の「山岳部」で大きな声を出す訓練を受け、かつ、大学卒業後、建設会社に就職して会社は変わりましたが、約30年間、建設業界で仕事をしてきたからなのです。騒音の大きい「建設現場」や「操業中の工場」では大きな声で話さないと相手に伝わらないからです。・次に、「現在の症状」についてお話いたします。体に無理をしない範囲で、復職に向け、朝50分のウォーキングか、暑い日はプールで30分(1,200m)を泳いでいます。(もちろん毎日ではありません)「うつ病」になる前は、毎週土曜日は水泳(2,000m)、日曜日はジョギング(5~10km)を7年間継続してやっていました。ちなみに、身長178cm、 体重68kgのいたって健康体の山男(元山岳部員)です。気分的には、「うつ」の時は先が見えず、細い「平均台」の上をいつ落ちるかという不安感を抱きながら歩いている気持ちだったのが、今は、広い道の真ん中を胸を張って遠い先までくっきりと見通して歩いている気分です。実感としては15才以上、若返った気持ちでいます。なぜ、こんなに毎日を楽しく送れるようになったのか?それは、「うつ」になった原因がやっと自分自身で自覚できたからなのです。それは、今から約13年前、当時、父が経営していた会社の社長を継いだ時から始まった「ストレス」だったのです。平成8年当時、バブルが崩壊して建設業界全体がおかしくなり、私の勤めていた大手ゼネコン(一部上場企業)もその限りではありませんでした。これからどうするか悩んでいた時に、父から自分が社長として経営している会社(従業員30人程度の小企業)に来るよう誘われました。父の会社も創立25周年を迎え、「会社には資産も十分にあり、幹部6人(技術、営業、経理部長等)も育ち、会社経営に素人の私がいつ来ても心配ない」との父の言葉を信じました。社長である父、経理を見ている専務も70歳を越え、体力的、精神的にもバブル崩壊後の業界を生き抜く気力、体力が失われていました。父に「万が一」のことがあれば、母がまた苦労することが察せられたので「母の為」に二代目社長として会社を継ぐ決心をしたのです。しかし、いざ父の会社に来てみると、会社の実態は「大赤字」(債務超過)で、いつ倒産してもおかしくない状態であり、入社3ヶ月目に経営者(父)の跡継ぎ(将来の経営者)として銀行から7千万円の借金の連帯保証人としてハンコを押させられたのです。その瞬間に「父に騙された」という思いと「会社と無関係な妻を巻き込んでしまった」との後悔の念が生まれました。案の定、入社2年目に危機的状況になり、親会社へ父が泣きつき、そこの社長より「歳をとった社長(父)と専務が即刻辞任し、全財産を売ることで少しでも借金を減らして息子(私)に後を継がせることを条件に、助けてやる」と言われました。何の準備期間も無く、いきなり社長になった私はその日から毎月、会社の資金繰りを考え、銀行への融資を受ける交渉を一人ですることになりました。※父は会社の金のことは全て専務に任せ、まったく把握していなかったのです。決算書の内容、銀行への交渉、資金の流れも分からず、ただ営業として得意先への接待(酒=飲食)と部下や客に気前よく現金を振りまいていたのです。その費用も会社に請求すること無く、毎月30万円のこずかいから全て払っていました。要するに社長としていい顔をしていただけでした。唯一、会社の実態を把握していた専務は、自分の財産を1円も出すことなく、引退を機に二度と会社に出てきませんでした。会社経営者としてたった一人残された私は相談相手も無く、社長として約5年間会社経営を頑張りましたが、平成15年1月に倒産となり、会社の借金の連帯保証人になっていた私と父(前社長)も会社共々、自己破産しました。自己破産処理に至る過程、弁護士との打合せ、倒産後の自己破産申請、物理的な破産処理(工場の機械や機材、事務所にあった帳簿の処理等)を約1年かかってやり抜きました。自己破産申請が受理され正式に裁判所の認定が下りた後、再就職するために毎日「ハローワーク」に通い、46歳の誕生日寸前に現在の会社に採用がきまりました。(45歳を越えると急に求人件数が減るのです)少し話が戻りますが、聞いてください。大学卒業後、父の会社に入社せず、自分で就職先を見つけたのは父の元から一刻も早く離れたかったからなのです。父(現在87歳)は、大阪の河内出身で大酒のみで、酔った父に4歳の時に殴られた時から私は父が嫌いになり、以後、父との確執は続きました、今の妻との結婚も反対され、耐えられずに家を出て約5年間、一人暮らしをしていました。唯一、自分の気持ちを分かっていてくれていると思っていた母(現在84歳)もそんな父を恐れ、気を使い、妻との結婚には反対でした。結局、親の承諾を受けないまま、式も挙げず、金銭的な援助もなく、妻と二人で生きていく道を選びました。私には姉(現在57歳)が居ますが、当時は相談したくてもアメリカに居て相談できませんでした。未だに父から私への愛情は一度も感じたことはないのです。母は優しく、愛情いっぱいに私を育ててくれたので感謝の念を持っています。妻と結婚して21年、今では妻のことも認め、ひと月に二度は実家で談笑できる関係になっています。私の父母への思いも、大学まで出してくれたことと、父(87歳)、母(84歳)になっても大病もせずに二人とも元気でいてくれていることに感謝しています。話しが長くなりましたが、今までの話は「うつ病」になった原因(ストレス)と思われます。「うつ病」の発症に至るきっかけがあったのです。4年ほど前、今の会社で転勤命令が出て、岡山県倉敷市へ異動となりました。初めての転勤であり、生まれた時から東京の「緑豊かな武蔵野」で育った私にとって、仕事への不安はありましたが、見知らぬ土地への好奇心もあり(大学生時代は登山と一人旅が趣味でした)妻共々、楽しみな気持ちの方が上まわっていました。やがて倉敷での生活が1年ほどたった時、まず、不眠が始まりました、3ヶ月以上、夜中に目が覚めて寝つけなくなったり、朝早く目が覚めてしまうことが続き、最初、懸かりつけの「循環器内科」に相談して睡眠導入剤を処方してもらいました。それでも不眠が続くので、当時、政府の行っていた「うつ病のCM(おとうさん最近、寝れている?)」を見て、もしかしたら自分も「うつ病」の初期症状ではないかと思い「心療内科」を受診しました。けれども私の担当になった若い女医さんは問診で「なんで心療内科に来たの?」との質問に「不眠が5ヶ月間続いています」との答えに対して、「循環器内科」と同じ睡眠導入剤の処方をしただけでした。その間も徐除に「うつ症状」は進行し、1ヵ月後イライラと不安感でどうにも自分自身をコントロールできなくなってしまいました。異常な私の行動に妻が気付き、改めて「心療内科」のベテラン男性医師に診てもらったところ、うつ病の初期」との診断を受け、「まず、1ヶ月間休むよう」言われました。(その瞬間、ほっとする自分を感じ、不安が軽減されました)休職中の妻とのんびり過ごす倉敷での日々は、観光客気分でむしろ楽しいほどでした。そして1ヵ月後、復職し仕事を始めましたが、2階の事務所へ登る階段もつらく、仕事をしているふりをして、ただ時が過ぎるのを待っていました。復職して1ヶ月後、本社(東京)での面談に呼び出され、その2週後に「本社へ戻れ」との異動命令が出ました。会社は、東京に戻して内勤にした方が良いとの判断をしてくれたのだと思います。精神的に混乱している中、引越し手続きと荷造りをやっとの思いで行い、妻共々、ふらふらの状態で東京に戻ってきました。でも、生まれ育った「緑豊かな武蔵野」に戻れ、二人ともほっとしました。依然、なぜ「うつ病」になったのか私も妻もいくら考えても分かりませんでした。でも、「うつ病」は遺伝でないことを知っていましたので、父方母方も長寿家系であり、「なぜ、私が?」との思いはずっと、つい先週まで続いていました。今年の5月連休後に「うつ病」が再発し、3ヶ月の休職になって家で休んでいる時(先週)、母からの電話があり、その話の中で、「おとうさんが死んだ時は、おとうさんの経営していた会社の従業員に知らせる」との言葉に反応し、「冗談じゃない、お袋は俺がどんなにおやじの会社を継いで苦労したことを分かっていてくれていたんじゃないのか」と叫び、怒りと悔しさで涙があふれました。同時に、今まで5分間の話しをするのがやっとだった私が、約1時間半、怒り、泣いて、自分の気持ちを母に訴えていることに驚きました。なぜなら、「うつ状態」になると、笑う事も、泣く事も、怒る事もできなく、ただじっと目を閉じて横になっていることしかできなかったからです。今回も、休職した最初の1ヶ月半は、トイレと食事、風呂以外は、ソファーに目を閉じて横になることしか出来なかったのです。(睡眠と合計し1日約20時間横になっていました)母との電話で自分でも終わった事と思っていた「父の会社で苦労したこと」と「父に裏切られた」との思いが「うつ病」の原因であると、はっきり自覚できたのです。それと同時に、岡山で発症した理由も明確に分かりました。岡山に居たとき、上司(バリバリの大阪なにわの出身者)が大きな声の大阪弁で私を毎日どなっていたからです。同じ部の女性に「H.Kさん、パワハラ受けているんじゃないの? 若い人も皆んな、H.Kさんかわいそうって言っているよ」と言われても、自分の中では「大阪のおっさんが何か言っている」くらいにしか思っていませんでした。父との事がトラウマで、同じ大阪弁を話す上司を嫌いではないが「苦手な人間」との思いが深まり、上司と会うことが辛くなってしまった事が、「うつ病」発症のきっかけになったのだなと分かりました。「うつ病」になった「原因」と「きっかけ」が分かった瞬間、それまで、深い霧の中にいた自分の前からウソのように霧が消えて行くことが実感できると同時に、気分が日に日に良くなり、今の毎日が楽しく元気で、頭脳明晰で次から次へと新しいアイデアが湧き上がる自分に戻れました。(この状態を「躁」と言うのであれば、世の中の芸術家、小説家、IT企業の創業者は皆、「躁病」なの?)でも、「うつ」よりよっぽどましなので、今よりペースダウンしても「うつ状態」には戻りたくない気持ちです。もう、地獄は見たくないのです。・今の気持ちとこれからどうするかについてもう少し話をいたします。新たに「躁鬱病」の懸念が出て「うつ病」と違って「一生治らない病気」であり、でも「死に至る病気でない」ことを理解しました。予防として主治医が処方した「リチウム」(リーマス錠200)を飲み続ければ「躁状態」を悪化させずに生活して行ける事も分かり、「躁鬱病」を受け入れて生きていく勇気が湧きました。けれども、一度芽生えた主治医とカウンセラー(主治医の奥さん)への不信感が消えず、「最悪、強制入院に、私の権限で行える」との主治医の言葉が蘇り、クリニック(個人医院で予約制ではなく診療時間は長くて一人15分、私の場合は長くて3分程度でした)へ行くことが恐怖となってしまいました。この際、近くにある総合病院(キリスト教系)の中に「精神神経科」があり「躁鬱病」の治療も行っていることが昨日わかりましたので、今後、そちらにお世話になりたいと考えています。でも、これまでの2年間の診察記録を新しい病院にうまく引き継ぐ必要があり、どうすれば良いか、方法を教えて下さい。※分かっていても主治医に気をつかってしまうのが患者の性です。それと、現在の状態ならば十分に復職可能と思っていますが、新たに「躁鬱病」との診断が出た場合、会社の私に対する接し方が変わるのではないかとの懸念が浮かんできました。自分から退職することはありませんが、降格や本社内(東京)での配置転換は覚悟しています。(現在は管理職待遇)ただ、転勤(支店、子会社等)は、また新しい医者を探さなければならないのと、慣れない土地での新しい生活と人間関係を想像するだけで気持ちが苦しくなります。また、「緑豊かな武蔵野」に生まれ育った私は元々、自然(山、木々、花、小川、虫)が大好きで、毎週近くの公園を妻と散歩することがストレス解消法です。現在勤めている会社は、ある大手企業(元財閥系)の会社であり、就業規則、福利厚生もしっかりしていますが、復職後それとなく「退職勧奨を受ける可能性がある」との懸念があります。その場合、どう会社と接すれば良いのか、退職すれば、今の住まいは社宅の為、妻共々、53才で収入も家もなく、ホームレスになってしまう可能性もあるのです。今の生活を守ることは、命を守ることと同じなのです。※雇用問題は「社会保険労務士」に相談するべきですね。(笑い)ここまで回復し、「うつ病」になった原因まで、今回の休職中に分かったことは「神様が与えてくれた3ヶ月」として楽しい日々(笑う事、泣く事、怒る事ができるようになった)を妻と二人で喜んでいます。また、「ジャストアンサー」を偶然知り、匿名で、いつでも、どこでもアドバイスを受けられることが、大きな「心の支え」となっています。私の心の奥底に封印されていた「一番言たかったこと、一番人に聞いて欲しかったこと」を全て吐き出すことができました。話しを聞いてくれる人(システム)にめぐり会ったことで安心感が一層大きくなりました。“2012.7.20” は、私にとって「第3の人生の誕生日」となりました。長い文章になってしまいましたが、この文章が少しでも今後の医療や同じ苦しみを抱えている患者さんの役に立てば良いと思っています。「情けは人の為ならず」これが私の座右の銘であり、私の性格とこれまでの人生を表した一言なのです。今は、これからの人生を「人の役に立って生きて行きたい」との思いでいっぱいです。そして、「自分の人生」の先の先まで明確に見通せる自分が今、ここに居ます。新しい人生の目標もハッキリと見えています。長すぎるので今回はこれで終わりとします。 妻に怒られました(笑い)多くの人々に読んでいただき、何かの役に立てば幸いです。以 上 ,
質問者: 返答済み 5 年 前.

2012.07.25


clozapine1961先生へ


 


私(53才男)、今後は「H.K」(東京都在住)と名乗ります。


先ずは、早速にアドバイスを頂き、ありがとうございます。


アドバイスを受け、私なりに再度、冷静に考えてみました。


 


・まず、「躁鬱病と診断するにいたったエピソード」についてお話いたします。


 


3週前まで「うつ状態」で下を向いて、小さな声で先生の質問に答えるのがやっとだった私が急に元気になり(私としては徐徐に良くなってきたつもり)大きな声で30分も興奮して話したことが、医師に「躁状態」と受け取られたのだと思います。


私自身も大きな声で、身振り手振りを添えて必死の形相で話しをしていることに気付いていました。


妻(結婚21年目)と母(84歳)も元気過ぎる私の行動に気付いていたようです。


しかし、私としては、外部(会社や得意先等)で大きな声で身振り手振りを加えて話すのが普通のことなのです。


それは、高校生時代の「山岳部」で大きな声を出す訓練を受け、かつ、大学卒業後、建設会社に就職して会社は変わりましたが、約30年間、建設業界で仕事をしてきたからなのです。


騒音の大きい「建設現場」や「操業中の工場」では大きな声で話さないと相手に伝わらないからです。


 


・次に、「現在の症状」についてお話いたします。


 


体に無理をしない範囲で、復職に向け、朝50分のウォーキングか、暑い日はプールで30分(1,200m)を泳いでいます。(もちろん毎日ではありません)


「うつ病」になる前は、毎週土曜日は水泳(2,000m)、日曜日はジョギング(5~10km)を7年間継続してやっていました。


ちなみに、身長178cm、体重68kgのいたって健康体の山男(元山岳部員)です。


 


気分的には、「うつ」の時は先が見えず、細い「平均台」の上をいつ落ちるかという不安感を抱きながら歩いている気持ちだったのが、今は、広い道の真ん中を胸を張って遠い先までくっきりと見通して歩いている気分です。


実感としては15才以上、若返った気持ちでいます。


 


なぜ、こんなに毎日を楽しく送れるようになったのか?


それは、「うつ」になった原因がやっと自分自身で自覚できたからなのです。


 


それは、今から約13年前、当時、父が経営していた会社の社長を継いだ時から始まった「ストレス」だったのです。


 


平成8年当時、バブルが崩壊して建設業界全体がおかしくなり、私の勤めていた大手ゼネコン(一部上場企業)もその限りではありませんでした。


これからどうするか悩んでいた時に、父から自分が社長として経営している会社(従業員30人程度の小企業)に来るよう誘われました。


父の会社も創立25周年を迎え、「会社には資産も十分にあり、幹部6人(技術、営業、経理部長等)も育ち、会社経営に素人の私がいつ来ても心配ない」との父の言葉を信じました。


社長である父、経理を見ている専務も70歳を越え、体力的、精神的にもバブル崩壊後の業界を生き抜く気力、体力が失われていました。


父に「万が一」のことがあれば、母がまた苦労することが察せられたので「母の為」に二代目社長として会社を継ぐ決心をしたのです。


 


しかし、いざ父の会社に来てみると、会社の実態は「大赤字」(債務超過)で、いつ倒産してもおかしくない状態であり、入社3ヶ月目に経営者(父)の跡継ぎ(将来の経営者)として銀行から7千万円の借金の連帯保証人としてハンコを押させられたのです。


その瞬間に「父に騙された」という思いと「会社と無関係な妻を巻き込んでしまった」との後悔の念が生まれました。


案の定、入社2年目に危機的状況になり、親会社へ父が泣きつき、そこの社長より「歳をとった社長(父)と専務が即刻辞任し、全財産を売ることで少しでも借金を減らして息子(私)に後を継がせることを条件に、助けてやる」と言われました。


 


何の準備期間も無く、いきなり社長になった私はその日から毎月、会社の資金繰りを考え、銀行への融資を受ける交渉を一人ですることになりました。


※父は会社の金のことは全て専務に任せ、まったく把握していなかったのです。


決算書の内容、銀行への交渉、資金の流れも分からず、ただ営業として得意先への接待(酒=飲食)と部下や客に気前よく現金を振りまいていたのです。


その費用も会社に請求すること無く、毎月30万円のこずかいから全て払っていました。


要するに社長としていい顔をしていただけでした。


唯一、会社の実態を把握していた専務は、自分の財産を1円も出すことなく、引退を機に二度と会社に出てきませんでした。


会社経営者としてたった一人残された私は相談相手も無く、社長として約5年間会社経営を頑張りましたが、平成15年1月に倒産となり、会社の借金の連帯保証人になっていた私と父(前社長)も会社共々、自己破産しました。


自己破産処理に至る過程、弁護士との打合せ、倒産後の自己破産申請、物理的な破産処理(工場の機械や機材、事務所にあった帳簿の処理等)を約1年かかってやり抜きました。


自己破産申請が受理され正式に裁判所の認定が下りた後、再就職するために毎日「ハローワーク」に通い、46歳の誕生日寸前に現在の会社に採用がきまりました。(45歳を越えると急に求人件数が減るのです)


 


少し話が戻りますが、聞いてください。


大学卒業後、父の会社に入社せず、自分で就職先を見つけたのは父の元から一刻も早く離れたかったからなのです。


父(現在87歳)は、大阪の河内出身で大酒のみで、酔った父に4歳の時に殴られた時から私は父が嫌いになり、以後、父との確執は続きました、


今の妻との結婚も反対され、耐えられずに家を出て約5年間、一人暮らしをしていました。


唯一、自分の気持ちを分かっていてくれていると思っていた母(現在84歳)もそんな父を恐れ、気を使い、妻との結婚には反対でした。


結局、親の承諾を受けないまま、式も挙げず、金銭的な援助もなく、妻と二人で生きていく道を選びました。


私には姉(現在57歳)が居ますが、当時は相談したくてもアメリカに居て相談できませんでした。


未だに父から私への愛情は一度も感じたことはないのです。


母は優しく、愛情いっぱいに私を育ててくれたので感謝の念を持っています。


妻と結婚して21年、今では妻のことも認め、ひと月に二度は実家で談笑できる関係になっています。


私の父母への思いも、大学まで出してくれたことと、父(87歳)、母(84歳)になっても大病もせずに二人とも元気でいてくれていることに感謝しています。


 


話しが長くなりましたが、今までの話は「うつ病」になった原因(ストレス)と思われます。


「うつ病」の発症に至るきっかけがあったのです。


 


4年ほど前、今の会社で転勤命令が出て、岡山県倉敷市へ異動となりました。


初めての転勤であり、生まれた時から東京の「緑豊かな武蔵野」で育った私にとって、仕事への不安はありましたが、見知らぬ土地への好奇心もあり(大学生時代は登山と一人旅が趣味でした)妻共々、楽しみな気持ちの方が上まわっていました。


やがて倉敷での生活が1年ほどたった時、まず、不眠が始まりました、3ヶ月以上、夜中に目が覚めて寝つけなくなったり、朝早く目が覚めてしまうことが続き、最初、懸かりつけの「循環器内科」に相談して睡眠導入剤を処方してもらいました。


それでも不眠が続くので、当時、政府の行っていた「うつ病のCM(おとうさん最近、寝れている?)」を見て、もしかしたら自分も「うつ病」の初期症状ではないかと思い「心療内科」を受診しました。


けれども私の担当になった若い女医さんは問診で「なんで心療内科に来たの?」との質問に「不眠が5ヶ月間続いています」との答えに対して、「循環器内科」と同じ睡眠導入剤の処方をしただけでした。


その間も徐除に「うつ症状」は進行し、1ヵ月後イライラと不安感でどうにも自分自身をコントロールできなくなってしまいました。


異常な私の行動に妻が気付き、改めて「心療内科」のベテラン男性医師に診てもらったところ、うつ病の初期」との診断を受け、「まず、1ヶ月間休むよう」言われました。


(その瞬間、ほっとする自分を感じ、不安が軽減されました)


休職中の妻とのんびり過ごす倉敷での日々は、観光客気分でむしろ楽しいほどでした。


そして1ヵ月後、復職し仕事を始めましたが、2階の事務所へ登る階段もつらく、仕事をしているふりをして、ただ時が過ぎるのを待っていました。


復職して1ヶ月後、本社(東京)での面談に呼び出され、その2週後に「本社へ戻れ」との異動命令が出ました。


会社は、東京に戻して内勤にした方が良いとの判断をしてくれたのだと思います。


精神的に混乱している中、引越し手続きと荷造りをやっとの思いで行い、妻共々、ふらふらの状態で東京に戻ってきました。


でも、生まれ育った「緑豊かな武蔵野」に戻れ、二人ともほっとしました。


 


依然、なぜ「うつ病」になったのか私も妻もいくら考えても分かりませんでした。


でも、「うつ病」は遺伝でないことを知っていましたので、父方母方も長寿家系であり、「なぜ、私が?」との思いはずっと、つい先週まで続いていました。


 


今年の5月連休後に「うつ病」が再発し、3ヶ月の休職になって家で休んでいる時(先週)、母からの電話があり、その話の中で、「おとうさんが死んだ時は、おとうさんの経営していた会社の従業員に知らせる」との言葉に反応し、「冗談じゃない、お袋は俺がどんなにおやじの会社を継いで苦労したことを分かっていてくれていたんじゃないのか」と叫び、怒りと悔しさで涙があふれました。


同時に、今まで5分間の話しをするのがやっとだった私が、約1時間半、怒り、泣いて、自分の気持ちを母に訴えていることに驚きました。


なぜなら、「うつ状態」になると、笑う事も、泣く事も、怒る事もできなく、ただじっと目を閉じて横になっていることしかできなかったからです。


今回も、休職した最初の1ヶ月半は、トイレと食事、風呂以外は、ソファーに目を閉じて横になることしか出来なかったのです。(睡眠と合計し1日約20時間横になっていました)


母との電話で自分でも終わった事と思っていた「父の会社で苦労したこと」と「父に裏切られた」との思いが「うつ病」の原因であると、はっきり自覚できたのです。


それと同時に、岡山で発症した理由も明確に分かりました。


岡山に居たとき、上司(バリバリの大阪なにわの出身者)が大きな声の大阪弁で私を毎日どなっていたからです。


同じ部の女性に「H.Kさん、パワハラ受けているんじゃないの? 若い人も皆んな、H.Kさんかわいそうって言っているよ」と言われても、自分の中では「大阪のおっさんが何か言っている」くらいにしか思っていませんでした。


父との事がトラウマで、同じ大阪弁を話す上司を嫌いではないが「苦手な人間」との思いが深まり、上司と会うことが辛くなってしまった事が、「うつ病」発症のきっかけになったのだなと分かりました。


 


「うつ病」になった「原因」と「きっかけ」が分かった瞬間、それまで、深い霧の中にいた自分の前からウソのように霧が消えて行くことが実感できると同時に、気分が日に日に良くなり、今の毎日が楽しく元気で、頭脳明晰で次から次へと新しいアイデアが湧き上がる自分に戻れました。(この状態を「躁」と言うのであれば、世の中の芸術家、小説家、IT企業の創業者は皆、「躁病」なの?)


でも、「うつ」よりよっぽどましなので、今よりペースダウンしても「うつ状態」には戻りたくない気持ちです。


もう、地獄は見たくないのです。


 


・今の気持ちとこれからどうするかについてもう少し話をいたします。


新たに「躁鬱病」の懸念が出て「うつ病」と違って「一生治らない病気」であり、でも「死に至る病気でない」ことを理解しました。


予防として主治医が処方した「リチウム」(リーマス錠200)を飲み続ければ「躁状態」を悪化させずに生活して行ける事も分かり、「躁鬱病」を受け入れて生きていく勇気が湧きました。


 


けれども、一度芽生えた主治医とカウンセラー(主治医の奥さん)への不信感が消えず、「最悪、強制入院に、私の権限で行える」との主治医の言葉が蘇り、クリニック(個人医院で予約制ではなく診療時間は長くて一人15分、私の場合は長くて3分程度でした)へ行くことが恐怖となってしまいました。


この際、近くにある総合病院(キリスト教系)の中に「精神神経科」があり「躁鬱病」の治療も行っていることが昨日わかりましたので、今後、そちらにお世話になりたいと考えています。


 


でも、これまでの2年間の診察記録を新しい病院にうまく引き継ぐ必要があり、どうすれば良いか、方法を教えて下さい。


※分かっていても主治医に気をつかってしまうのが患者の性です。


 


それと、現在の状態ならば十分に復職可能と思っていますが、新たに「躁鬱病」との診断が出た場合、会社の私に対する接し方が変わるのではないかとの懸念が浮かんできました。


自分から退職することはありませんが、降格や本社内(東京)での配置転換は覚悟しています。(現在は管理職待遇)


ただ、転勤(支店、子会社等)は、また新しい医者を探さなければならないのと、慣れない土地での新しい生活と人間関係を想像するだけで気持ちが苦しくなります。


また、「緑豊かな武蔵野」に生まれ育った私は元々、自然(山、木々、花、小川、虫)が大好きで、毎週近くの公園を妻と散歩することがストレス解消法です。


現在勤めている会社は、ある大手企業(元財閥系)の会社であり、就業規則、福利厚生もしっかりしていますが、復職後それとなく「退職勧奨を受ける可能性がある」との懸念があります。


その場合、どう会社と接すれば良いのか、退職すれば、今の住まいは社宅の為、妻共々、53才で収入も家もなく、ホームレスになってしまう可能性もあるのです。


今の生活を守ることは、命を守ることと同じなのです。


※雇用問題は「社会保険労務士」に相談するべきですね。(笑い)


 


ここまで回復し、「うつ病」になった原因まで、今回の休職中に分かったことは「神様が与えてくれた3ヶ月」として楽しい日々(笑う事、泣く事、怒る事ができるようになった)を妻と二人で喜んでいます。


 


また、「ジャストアンサー」を偶然知り、匿名で、いつでも、どこでもアドバイスを受けられることが、大きな「心の支え」となっています。


私の心の奥底に封印されていた「一番言たかったこと、一番人に聞いて欲しかったこと」を全て吐き出すことができました。


話しを聞いてくれる人(システム)にめぐり会ったことで安心感が一層大きくなりました。


 


“2012.7.20” は、私にとって「第3の人生の誕生日」となりました。


 


長い文章になってしまいましたが、この文章が少しでも今後の医療や同じ苦しみを抱えている患者さんの役に立てば良いと思っています。


「情けは人の為ならず」これが私の座右の銘であり、私の性格とこれまでの人生を表した一言なのです。


今は、これからの人生を「人の役に立って生きて行きたい」との思いでいっぱいです。


そして、「自分の人生」の先の先まで明確に見通せる自分が今、ここに居ます。


新しい人生の目標もハッキリと見えています。


 


長すぎるので今回はこれで終わりとします。 妻に怒られました(笑い)


多くの人々に読んでいただき、何かの役に立てば幸いです。


以 上

専門家:  clozapine1961 返答済み 5 年 前.

H.K.さん、詳細な説明、有難うございました。

ご自身の病気に対して真正面から向き合い、病気と付き合いながらも自身の人生を切り開いていくという姿勢は、H.K.さんだからこそできているのでしょう。

一つだけわかっていてほしいのは、「うつ病」は一時的なもので軽症、「躁うつ病」は一生ものなので重症、ということではないということです。

また、「うつ病」か「躁うつ病」の違いはは、重症度の診断として大切なのではなく、治療と対処法自体が大きく異なってくるので、何度も診断を再考する必要があるということなのです。

そして、ご質問(これまでの2年間の診察記録を新しい病院にうまく引き継ぐ必要があり、どうすれば良いか、方法を教えて下さい)への返答ですね。

私が文面から拝察するに、これまでの経過は自身でよく把握されていると思います。しかしこれまでの治療経過に対する専門家としての意見や向精神薬の経緯などは、ご自身の診療情報として大切ですし、今後の治療方針を立てる上でも不可欠です。

診療情報提供書は、自身で前医から受け取るのが原則であり、それは患者様の権利なので何の問題もありませんが、何となく気まずい気持ちは察します。

ですので、どうしても診療情報提供書を前医に書いてもらうのが難しければ、新しい主治医から前医に診療情報を請求していただくようお願いしてみてはと思います。

私もこの手法は時々用いています。

ではお大事になさってくださいね。

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